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第1章 終わりなき論争:《A面》速読の技術——本を精査するためのスキニング|試し読み②



速読術をうたう本は、ビジネス実用書の一ジャンルとして確立され、いつでも書棚を占めている。速読は、現代人に必須の技術だという。一方で、遅読(スロー・リーディング)の大切さを説く本もある。「速読で身につけた知識は脂肪だ」と言い切る。


速読か、遅読かの二者択一ではない。速読する本と、じっくり精読するべき本を分ける。これが、わたしの考えだ。


情報を猛スピードで、大量に処理しなければ、いまの世の中についていけないと、よく言われる。わたし自身は、これを強迫観念だと考えている。むしろ、いまの時代はどうやって情報を遮断するかのほうが重要だ。ネットを切断して、じっくり世界を観察する。考える。あるいは、文章を書く。


そうした「静の時間」をいかに創り出すかにこそ工夫がいる。だから、速読するのは、静かに精読するためだ。精読する本を選び出すため、猛スピードでスキニングしていく。精読のための速読だと考えている。



テレビやネット、動画は遅い


もっとも、速読こそ読書の醍醐味とは言える。


わたしはテレビもネットもほとんど見ない。テレビやネットがくだらないというのではない。単純に時間がないのだ。


わたしは百姓であり、猟師であり︑鴨を解体してレストランに卸す食肉加工業者でもある。また、私塾の塾長として若いライターを教えている。もちろん、自分自身がライターだ。文章を書くことで生きている。稲作や猟をしつつ、新聞や雑誌に記事を書く。本を執筆する。


まず相当に忙しい部類の人間だろう。



わたしがテレビやネットを見ない理由は、だから“速読”しにくいという理由がいちばん大きい。

 

報道番組でもドキュメンタリーでも、じっくり見たい良質な番組はたくさんある。そういうのではなく、偶然目にした番組で、なにか自分の興味を引くトピックが、ふと現れることもある。なんだろう? 気を引く。


すると、CMが入るのである。知りたい情報はCMのあとに。


CMのないNHKでも同じである。肝心の知りたい情報に達するまで、BGMが入り、再現ドラマが入り、ゲストコメンテーターのリアクションが入り、スタジオのざわめき声(エーー!)が入る。字幕のあるユーチューブや、録画で見ても同じだ。せいぜい倍速、三倍速。遅すぎる。


それが「単なる情報」であるならば、ストレスなく、短時間でたどり着きたい。情報に、そこまでの時間をかける余裕は、自分の人生の残り時間を考えると、とてもない。映像も“速読”したいのである。


ネットも同じだ。思わせぶりな見出しにつられて画面をクリック。しかし、知りたい情報に至るまで、何回画面をクリックしなければならないのか。



ネットもテレビも、「遅すぎる」。


ネットニュースは紙のメディア以上に、「見せ方」を重視する。「有料会員になると続きをお読みいただけます」ボタンをどうすれば押してもらえるか。釣り、とはいわないまでも、工夫して見出しを考える。リード部分を切る。たしかに上手なもので、続きを読んでみたくなる、ボタンを押したくなるものばかりだ。そして、後悔することが多い。時間がもったいない。


考えてみればあたりまえで、いままで新聞や雑誌、テレビを見ていて、これはためになった、読んでよかった、見てよかったという記事が大量にあっただろうか。ネット時代に移行したからといって、読む価値、見る価値のあるコンテンツ(いやな言葉だ)が増殖する、そんなことあるわけがない。


要は、読み飛ばす、速読することを邪魔しているのだ。読者、視聴者の時間を奪い合っているのが現代だ。時間が、カネに直結する社会。だから、ふつう言われているように、現代は情報過多なのではない。情報過少だ。速読できないように、社会は設計されつつある。



紙の本が速読に最適な理由


速読するために必須なのは、第一に、全体像を見通せることだ。記者会見に出て、その資料が一枚のペーパーなのか、数十枚にも及ぶのか。手にとったその重み、厚みで、人は読むスピードを調節する。適当なスピードを選ぶ。速読とは、大局判断のことだ。


第二に、行きつ戻りつできること、パラパラできることだ。速読をしていて、キーワードを見つける。そのキーワードは、前にも出ていたか、今後も頻出するのか。資料を繰って見つけだす。速読とは、高速移動のことだ。


したがって、速読にもっとも適したメディアは、紙の本ということになる。


手にとって、厚みが分かる。全体像が見渡せる。ページを繰って、瞬時に移動できる。



電子書籍はどうか。


のちにも書くことだが、わたしは電子書籍を否定する者ではない。本と、電子書籍とは違うモノ、異なる物体だと言っているだけだ。


電子書籍では、手にとって分かる“本の厚み”はない。全体のうち、いまはどこを読んでいるのか、ページ表示されるものの、それは数字データでしかない。どのあたりに、どんなことが書いてあったか、手で覚えているわけではない。だから、全体像を見渡せない。人間は、数字だけを取り出して覚えていることはできない。読書とは、人が考えているよりもずっと、肉体的な営みだ。


また、電子書籍は「パラパラとページを繰って、瞬時に移動」することが、きわめて不得意だ。ページをめくるのがもどかしい。


速読というものは、紙の本でなければ難しいかもしれない。手のひらに載せて本がどの程度の厚みがあるのか。一段組みなのか二段組みなのか。いま開いているページが全体のどのあたりに位置するのか。似たようなトピックを扱っている箇所はほかにもあるか。たびたび目次に戻って参照したり、ページを高速度でめくって小項目を探したり。



速読力を養う五つの技術


多くのビジネス書、実用書の類いは、練習すれば速読できるだろう。一分で五〜十ページ。新書サイズならば一時間もあれば一冊読み終える。それぐらいのスピード感。


小説は、速読するものではないとわたしは思う。だが、速読できる場合はある。資料として使うもの、あらすじが分かればいい小説ならば、速読できる。


読むことが仕事であるライター仕事をしていれば、しぜん、速読の技術には通暁(つうぎょう)するようになる。以下はそのテクニック、まずは簡単なほうから。あくまで一例で、読者の参考になればうれしい。


(1)音読しない│視覚で読む

自分で気づいていない場合も多いが、小さく唇を動かして文章を読んでいる人がいる。妙な言い方だが、黙読しながら音読している人もいる。声を出さず、唇も動いていないのだが、一文字ずつ目で追っている。あるいは、脳内で音に再生している。いわば疑似音読だ。


そうではなく、文字という象徴(シンボル)を、視覚情報として脳に入れる。文字を、〈読む〉のではなく、〈見る〉。聴覚ではなく、視覚。意識するだけで、格段にスピードは上がる。


(2)漢字だけ追う│日本語という利器を生かす

古代、無文字社会だった日本は、中国から漢字を輸入した。はじめは万葉仮名として、漢字を日本語の音に該当させていた。阿(あ)、伊(い)、宇(う)、衣(え)、於(お)、青丹吉(あを・に・よし)、咲花乃(さく・はな・の)、などと書いていた。


それでは時間がかかりすぎるので、簡略にするためにひらがな、カタカナを生んだ。漢字を崩した草書体からひらがなを、偏(へん)や旁(つくり)だけに省略したカタカナを作り、助詞などにあてていった。漢字仮名まじり文である。これは、世界でも類例のない表記法で、日本文化最大の発明だ。


だから、日本語を読み、書けるというのは、それだけで宝くじに当たったような僥倖なのだ。名詞でも動詞でも形容詞でも、いわば大事な「概念」は漢字にしてある。そして、日本語の「情緒」は、送り仮名にある。「てにをは」が日本語の骨法だ。わたしたちの祖先は、じつに便利かつ美しいシステムを開発してくれたのだ。


これを利用しない手はない。日本語の本質は送り仮名にあるといってもいいが、しかし、これは「情緒」なのだから、情報だけを得ようとする速読ならば、読み飛ばしていいだろう。


例をあげる。



象は鼻が長い。

象の鼻は長い。

象が鼻は長い。



この文章は、いずれも違う情緒、異なった「感じ」がある。その違いを味わうことが、日本語を読むことだ。


しかし、情報だけ分かればいい速読ならば、象→鼻→長だけ目に入れば十分だろう。漢字だけに目を走らせる。それだけで文意がつかめる。


これはやや極端な例だが(この文章を題名にした日本語論の名著がある。三上章『象は鼻が長い』)、もっと長くて、複雑な文章になるほど、この手法は効果がある。


(3)段落読み│眺めると見える景色

文章を目で追うのではなく、段落全体を、いわば眺める。遠くから見る。


アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が新聞各紙を速読するとき、この手法を使っていたといわれる。文章のひとつひとつを等速直線運動で読んでいく必要はない。文章には、読み飛ばしていいところと、注意して読まなければならないところが散在している。必要部分を、発見するように全体を眺める。


その場合、とくに接続詞に注目する。逆接の接続詞、「しかし」「だが」「けれども」「ところが」などが、段落の始まりに置いてある場合は、そのパラグラフ全体が文章の重要部になっている可能性が高い。少しスピードをゆるめる。論理構成を読みとる。


「第一に」「第二に」というアクセントに注目するのもいいだろう。ポイントを箇条書きにしている。


速読といっても、緩急をつけるのが大事だ。超高速で「眺める」ところがあり、少し注意して「目で追う」ところがある。しかし、けっして音読も疑似音読もしない。


(4)探し読み│問題意識の自覚

目的意識をはっきりさせて読む、と言い換えてもいい。


わたしは新聞や雑誌に記事を書くライターでもある。三十五年間、じつにいろんな人にインタビューさせてもらってきた。小説家にミュージシャン、俳優、映画監督、ダンサーら芸術系の人も多いが、政治家や経済人、学者にもよく取材した。


事前に、相手の作品や、その人について書かれた記事、インタビューをどれだけ多く目にしておくかが、取材の成否を握る。こういうときに役立つのが、超速読術だ。本で言えば、一冊につき十五分から三十分くらいで読みあげるイメージ。


仕事はつねに、何本かを同時並行して進めていた。ほんとうは取材対象についての本や資料を何冊も精読して向かうのだが︑取材場所に着くあいだの、電車やバスに乗っているわずか十数分で下調べをすませるという、本来あってはならない綱渡り取材も、けっこうした。


そんなとき、漫然と読んでいたのではとても間に合わない。だから、自分はそもそも、その取材相手になにを聞きたいのか、煎じ詰めてよく考える。すると、そのトピックに近接する単語が目に飛び込んでくるようになる。


本であれば、目次をじっくりと眺める。どの章を読めば、自分が聞こうとしているテーマが書かれているか、だいたい分かるものだ。その章を集中して、読むというより、探す。キーワードをピックアップしていく。


漠然とした情報ではない。自分は、この著者になにを聞きたいのか。この本からなにを知りたいのか。まずはそこを確定する。速読は、自分の目的を考えることから始まる。


(5)同時並行読み│すきま時間で読む

万人に向くわけではないが、本は、何冊か同時に読み進めることも試してほしい。先ほど述べた、資料としての超速読ばかりではなく、カバー・トゥ・カバーでじっくり読む古典についても、同じだ。


一冊を読み終えるまで別の本を読めない、読まない人が、かなりの数いる。小説でいえば「あらすじがごっちゃになってしまう」ということがある。あるいは、集中して読み切ったほうが速い、たくさん読める、という人もいるだろう。


同時並行読みをすすめる理由は、速読のためというのもあるが、多ジャンルの本をまんべんなく読むため、という意味が強い。のちに書くが、①海外文学②日本文学③社会科学か自然科学、それに④詩集の四ジャンルくらいは、偏ることなく読んでいきたい、とわたしは考えている。


わたしの場合、ある本を十五分読むと、ほかの本に移る。十五分にあわせたキッチンタイマーを、書斎やリビング、食卓、風呂場にさえ用意してある。仕事の合間、リビングでコーヒーを飲むとき、食事をするとき、いずれも十五分単位で本を読む。そしてそれは、全部違う本だ。


なぜ十五分かというと、それより短くすると、小説でも社会科学、自然科学の本でも、意味のかたまりがとりにくくなる。また十五分を超えると、こんどはインプットの時間をとるのが億劫になる。


読書は最低一時間続けたい。落ち着いて。お気に入りの喫茶店で——。そういう気持ちは、よく分かる。


しかし、そういう特別な一時間が空くまで読書をしないのならば、少なくともわたしにとっては、週に一回時間をとるのも、難しいかもしれない。猟師も百姓も、長時間労働なのだ。だからこそ、十五分である。仕事でひと息ついたとき。風呂。起きた直後。寝る前。十五分のすきま時間ならば、工夫次第で、一日に数回はとれるだろう。どうせ細切れ時間になって集中が途切れてしまうのならば、いっそ違う本に。本のローテーション制、という発想だ。


ためしに二、三冊程度の同時並行読みを半年ほど続けてみてほしい。「速くなった」と実感できる人は、そのまま習慣に。「自分にはどうにも向かない」と確認できた人は、一冊読み切り読書でかまわない。ただし、多ジャンルの本を読むのは心がけたい。



伝説の速読家、芥川龍之介


ところで、速読が得意だった人は、だれだろうか。現代日本の作家では、司馬遼太郎、井上ひさし、大江健三郎、この三人が御三家であったといわれている。


もっと昔、伝説の速読家に、芥川龍之介がいる。食事中に書物を手放さないのはあたりまえ。来客中も本を片手に談笑しつつ、下を向いてページを繰っている。客は「ああ、またやってるな」と思ったそうだ。


英語も速読できた。「普通の英文学書ならば一日千二、三百ページは楽に読んだ」というのだから、にわかに信じられないほどの速読家だ。


「芋粥」は、芥川の短編のなかで、わたしがもっとも好きな作品だ。「王朝もの」といわれている作品群のひとつで、宇治拾遺物語に題材を得ている。


平安時代、風采のあがらない貧乏侍「 五位(ごゐ)」がいた。上司にも同僚にも、子供にさえ馬鹿にされる、うだつのあがらない男。自分の酒瓶の中身を飲まれて、そのあとへ小便を入れられるという、たちの悪いいじめも受ける。


しかしそんなときでも、この男は怒りを見せない。怒ることができない。


彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけぬのう、お身(み)たちは。」と云ふ。  ——芥川龍之介「芋粥」

うだつのあがらない男の発する、なにげないこの言葉を耳にして、ふと、ある若侍が電撃に撃たれる。深く、感じ入る。自らを恥じる。


所が、或日何かの折に、「いけぬのう、お身たちは」と云ふ声を聞いてからは、どうしても、それが頭を離れない。それ以来、この男の眼にだけは、五位が全く別人として、映るやうになつた。営養の不足した、血色の悪い、間のぬけた五位の顔にも、世間の迫害にべそを掻いた、「人間」が覗いてゐるからである。この無位の侍には、五位の事を考へる度に、世の中のすべてが、急に、本来の下等さを露(あらは)すやうに思はれた。  ——同前

物語の筋とは関係のない、なんということのない一節だが、わたしはこの一節から離れられなかった。救われた。


弱き者、小さくされた者、世間の迫害にべそをかいた人間。なぜか子供のころから、わたしの眼にも、それら「五位」たちの姿が映りやすかった。その声が耳を離れがたかった。彼ら彼女らに、大きな過ちを犯さずに生きていきたい。“マッチョ”で、無意識に人を傷つけやすいわたしに、多少なりとも歯止めがかかっているならば、それはこの作品のおかげだ。


つねづね、どこかで読んだことのある話だとは思っていた。ある日、ゴーゴリの『外套』に似たような筋があることに気づいた。どうやら英訳本でゴーゴリも読んでいたらしい。親友である作家・久米正雄に、そういう証言がある。



芥川の速読は、希代の名作も生んだ。

速読は、人を救うことがある。

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