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文は人なり
難破して、わが身は怒濤に巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、必死にしがみついた所は、燈台の窓縁である。やれ、嬉しや、たすけを求めて叫ばうとして、窓の内を見ると、今しも燈台守の夫婦とその幼き女児とが、つつましくも仕合せな夕食の最中である。ああ、いけねえ、と思った。おれの凄惨な一声で、この団欒が滅茶々々になるのだ、と思ったら喉まで出かかった「助けて!」の声がほんの一瞬戸惑った。 ——太宰治「一つの約束」
ほんの一瞬である。たちまち、大波が押し寄せて、その内気な遭難者を飲み込み、沖の遠くへと連れ去った。太宰の文章は、そう続く。
「ああ、いけねえ」と一瞬、戸惑った。なぜ戸惑うのか? 馬鹿なやつ。
そう思った人間は、ものなど書かないでよろしい。
控えめ。慎み。照れ。畏れ。
シャイネスのない人間は、ものなど書かなくていい。ツイッターにフェイスブックにインスタグラム。ノイジーな世界に、がさつな文章はもう十分、ゆきわたっている。ものを書くというのは、すでにして十分、騒々しいものなのだ。
文は人なり、という。有名なこの言葉を、犬は文章を書かないという意味で了解している人が多い。そうではない。文章とは、人そのものなのだ。その人の、性格も、感情も、知能も、来歴も性癖も趣味も、おっちょこちょいもしみったれもあんにゃもんにゃも、一切合切が出るものなのだ。いや、出てしまわなければならないものなのだ。
親しく付き合ってもらっている、ある世界的な思想家の、知性をわたしはたいへん尊敬している。よく考えると、その文章が好きなのだ。どんなに難しい思想を書いても、どこか、詩のようだ。断層がある。飛躍がある。だから、引き込まれる。
なぜそんなことが可能なのか。ある夜の席で、酒に勢いを得てそう問うてしまった。
「そんなの知らないよ」。そっぽを向かれた。話はそれぎりになって、話頭は別の方向に向いた。恥ずかしかった。消え入りたくなった。
しばらくしたあと、唐突に、「まあ、よく生きることだね」。思想家はそう言った。
先のわたしの問いへの答えだと気づいたのは、しばらく経ったあとだった。
良く、生きる。
善く、生きる。
好く、生きる。
生活者であること。表現などより、まずもって、その日を良く生きろ。存分に生きろ。汗で書け。
善意の人であること。自らを律する道徳をもて。他者に親切であれ。いじけるな。自分を憐あわれむな。表現とは、他者を憐れむためにある。
好人物であること。信じやすいお人好しであれ。騙だますな。騙されていろ。しかし、目をくらますことはできない。
その正義は伝わるのか
書くことの原動力が「怒り」であることは、ある。義憤にかられて文章を書くのが、むしろジャーナリストの主戦場だ。しかし同時に覚えておかなければならない。その義憤にかられた文章を、だれに読ませたいのか、ということだ。
たとえば、ときの政権を批判する。権力を監視し、批判することは健全なジャーナリズムの任務である。だが、それは、だれに読ませたいのか。もともと政権に批判的な読者にではあるまい。政権をなんとなく支持している人、判断がつきかねている人、もしくは、確固として政権を支持している人に、その言葉は向けられているのではないのか。
原稿に、嘲りや、説教、一刀両断にする正義があったとき、その、ほんとうに読んでほしい想定読者は、耳をふさぐ。文章とは、メディアだ(第15発)。メディアとは、媒介のことだ。波だ。どんなに弱い波動であっても、対岸に伝わる波でなければならない。伝導しなければ、文章は文章として、意味をなしていない。
わたしたちが磨くべきは、一刀両断する正義の剣ではない。むしろ読んだ者を恥じ入らせるようなもの。相手の人間らしさ、シャイネスの彼岸に届く文章こそが、目指すべきものだ。
そのための武器が、笑いだ。ユーモアだ。
橋下徹氏が大阪市長だった時代、卒業式で君が代を斉唱しない高校教員をチェックするという事件があった。橋下氏と懇意の民間出身校長が、ほんとうに君が代を歌っているのか、式典で教師の口元をチェックして調べたという珍事まで出来(しゅったい)した。
いろいろな新聞が取り上げた。「当然だ」とするサンケイ的論調もあれば、「思想信条の自由の侵害」と糾弾するアサヒ的論調もあった。
わたし個人は、どう思ったか。どうでもいい。好きにしたらいい。
ただ、橋下氏にご注進申し上げる校長のへつらい根性は、おぞましいというより漫画的で、バルザックが描く人間喜劇のようだとは、少なくとも思った。
わたしもこの校長に取材し、大きな記事を書いた。出だしはAKB48で、彼女たちはなぜユニゾン(斉唱)で歌うのか。そもそも日本で斉唱はいつ始まったのか、軍隊で君が代は歌ったのか。大まじめに問うた。糾弾調の文章はひとつもなかった。「笑えた」という感想を、多くもらった。
およそまともとは思えない茶番に対し、まなじりを決して指弾する。それが、文章として、効果的なのかどうか、ということなのだ。
文章を書くとは、表現者になることだ。表現者とは、畢竟、おもしろい人のことだ。おもしろいことを書く人がライターだ。
「おもしろい」というのは、英語でいう〈funny〉も含まれている。笑えること。〈interesting〉もある。興味深い。考えさせられる。
日本語ではどうか。
書き、愚劣な世界を、生きる
雪のおもしろう降りたりし朝(あした)——吉田兼好
冬の朝、森閑と静まりかえった庭が、真っ白になっている。昨晩から降り始めた雪が積もって、白銀色に光る。庭から遠くの山まで、ひとつながりに見晴るかすようだ。冷気が胸に入り、気持ちが開ける。
目の前が広々と開けること、周囲が明るくなることを、古来、日本人は「おもしろい」と表現してきた。「おもしろし」とは、本来、そういう意味だったのだ。
いい文章を書くには、いい人にならなければならない。それは、汗で書く良き生活者であり、自らを律し他者をこそ憐れむプライドの高い善人であり、好い人、つまり好人物である。だまされやすい。お人好し。少し、抜けている。
まなじりを決するのではない。屈託がなくおおらかで、おっとりと、他を攻撃しない。つまり君子でなければならない。
ライターは、君子たるべきだ。
正気で言っている。
おもしろいことを書く人がライターなのだと書いた。もう少し正確に言うと、表現者とは、おもしろいことを、発見する人のことだ。
徒然草では「雪のおもしろう降りたりし朝」なんて書いているが、ストーブもエアコンも断熱材もない、鎌倉時代の粗末な庵では、早朝の寒気など、震え上がるだけのものだったに違いない。雪の朝なんてだれも「おもしろい」と思っていやしない。吉田兼好が〈発見〉した、おもしろさなのだ。おもしろきこともなき世におもしろさを発見するのが、表現者であり、君子であるのだ。
天行健。君子以自強不息。——易経
天行(てんぎょう)健なり。君子、以(もって)自ら強(つと)むることやまず。太陽や月、天体の星々が、毎日毎晩、あきもせずに空を経巡(へめぐ)る。まさにそのように、君子は、毎日、勉めることをやめてはいけない。
勉強がすべてだ。そして勉強とは、言葉を鍛えること。表現を鍛えること。そして、感性を鍛えることである。おもしろきことを、発見する力。それは結局、感性の鋭さなのだ。世の中を見る、視線の強さのことなのだ。
ところで、なぜおもしろいことを見つけなければならないのか。
それは、世界がおもしろくないからだ。
世界は愚劣で、人生は生きるに値しない。
そんなことは、じつはあたりまえなのだ。世界は、あなたを中心に回っているのではない。宇宙は、あなたのために生まれたのではない。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」などという歌があるが、そもそも「おもしろきこともなき世」が、常態なのだ。
だから、人類は発見する必要があった。歌や、踊りや、ものがたりが、〈表現〉が、この世に絶えたことは、人類創世以来、一度もない。それは人間が、表現を必要とする生物だから。雪の朝の冷気のような、清潔で柔らかな、明るさというより深みのある、気持ちが開けるような、生きる空間が広がるような、そんな「おもしろさ」が、人間にはどうしても必要だったからだ。
哄笑でなくてよい。嘲笑であってはならない。がんじがらめの論理から、肉体的な危険から解放されたときに、ふと、もれるほほえみ。盧舎那仏のようなアルカイックスマイル。モナリザのような微笑。
微笑は、あらゆる表現の中点である。
動物は、笑わない。
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