作家で猟師、『三行で撃つ』著者の近藤康太郎氏は、新聞社という大組織のなかで長年「楽しそうでいいですね」と言われてきた。しかし、決して好きな〈仕事〉ばかりしてきたわけではないという。
〈仕事〉のみならず、〈勉強〉、そして〈遊び〉でさえ、他者に強制される何かとは、本質的におもしろくないものだ。それでも〈仕事〉はおもしろくすることができるのだ、と。
毎日をご機嫌に生きるための3つの要素〈仕事〉〈勉強〉〈遊び〉を強くする方法とは? 新刊『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』より、一部抜粋する。
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自由がないからクリエイティブ?
アレクサンドル・デュマに『モンテ・クリスト伯』という大著があります。わたしはあの本が大好きなんです。主人公が無実の罪で逮捕され、投獄される。その同じ牢獄にいたおじいさんの話が、とくに印象に残っています。
この老人はなんでも知っていて、いろんな発明もできる。
「牢獄にいるのに、なぜそんなことが可能なんですか?」と、主人公が老人に聞く。するとこのじいさん、「自由がないからだ」って言うんです。
自由がないから、ギュッと空気が圧縮される。知恵でも、過去の知識でも、圧縮されるから爆発する、というわけ。
好きなことさせてくれない。望むポジションにつかせてくれない。そんな泣き言こくな。爆発するのは牢獄にいるときなんだ。
自由がないからこそ、知恵が働くし、工夫を凝らす。抑圧され、自由を渇望し、その思いがのちに創造力となって爆発する。
これはつまり、次節以降で書く〈勉強〉と〈遊び〉をしろ、ということですね。
チェーホフ、鷗外、本居宣長の共通点
〈仕事〉の話で、最後にひとつだけつけ加えると、好きなこと一本で食っていける人は、例外中の例外だということです。
小説家が小説だけで、ミュージシャンだったら音楽一本で生活できる。それは、僥倖だと思ったほうがいい。才能があるのに埋もれている人は、山ほどいます。売れた人には、必ず才能がある。しかし、逆は必ずしも真ならず。才能がある人が、必ず売れるとは限らない。世界は公正にできていません。
チェーホフというロシアの作家がいます。チェーホフは作家でもあるけれど、ずっと医者でもあった。だいぶ売れてきて、友人から「作家一本に絞ったほうがいい」と助言されるんですが、固辞しています。自分には医業が必要なんだと、そういう手紙が残っている。表現に少々問題ありますが、引用します。
あなたは僕に二兎を追うな、医学の仕事のことを考えるなと仰しゃる。僕にはなぜ、たとい字義通りの意味でも、二兎を追ってはいけないのかわかりません。猟犬がいるなら、追えば宜しい。(略)自分に仕事が一つじゃなく二つあると自覚すると、勇気が出て来ていっそう自分に満足できるのです。……医学は僕の正妻、文学は情婦です。一方にあきたら、僕はもう一方のところに泊る。放埒じゃあるけれど、その代りひどく退屈することもなく、そのうえ僕の背信行為のために、両者とも断然なにひとつ失うことはない。 ——山田稔編『チェーホフ 短篇と手紙』
森鷗外は、日本を代表する作家ですが、長く陸軍医官。軍の官僚です。決して官僚を辞めなかった。そういう自分を、「潔くない」とからかうような作品も書いています。自虐がかわいらしく、とてもおもしろい。
鷗村とは森鷗外、拊石とは夏目漱石のことでしょう。
「併(しか)し教員を罷(や)めた丈(だけ)でも、鷗村なんぞのやうに、役人をしてゐるのに比べて見ると、余程芸術家らしいかも知れないね。」 話題は拊石から鷗村に移つた。 純一は拊石の物などは、多少興味を持つて読んだことがあるが、鷗村の物では、アンデルセンの翻訳丈を見て、こんな詰まらない作を、よくも暇潰しに訳したものだと思つた切、此この人に対して何の興味をも持つてゐないから、会話に耳を傾けないで、独りで勝手な事を思つてゐた。 ——森鷗外「青年」
もっと古くは、本居宣長という国学者がいます。歴史に残る大学者です。あの人もずっと医者でした。小児科医をして、子供の患者を診て診療費をもらうと、その銭をチャリンって竹筒に入れていたそうです。そのカネで、自分の研究を続けた。古事記や源氏物語を一生読み続けた。
家のなりな怠りそねみやびをの書(ふみ)はよむとも歌はよむとも
本居宣長の歌です。
わたしはこれを座右の銘にしているんです。「家のなり」とは、生業、職業です。食うための「業なり」です。そういう、自分と家族のための業。家の業を「な怠りそね」、決して怠るな。
「みやびを」というのは、源氏物語や古事記やの、ああいう雅な文章を読んで研究したり、自分で和歌を詠んだり。ほんとうにしたい〈仕事〉、命を懸けている〈仕事〉をしている人です。
でも、自分にとっての本業をしていても、家の業を怠るな。そう歌っているんです。医者なら医者をやめるな。官僚なら官僚をやめるな、新聞記者をやめるなって言ってるんです。
結局、いい作品を残すには、長く、たゆまず、倦まずに続けるしかない。だからこその、家の業なんだ。
命を懸けて、人生の最後の日まで、長く続けて書(ふみ)を読み、歌を詠むため、文章を書くため。そのためにも、会社員をやめるな。
よく、生きる——〈仕事〉の幸福論
コンビニでバイトしながらライターをしている。作家を目指している。そういう人もたくさんいます。それの、いったいなにが恥ずかしいんですか?
むしろ、本物ってそちらだとも思う。コンビニでバイトしてでも、書きたい小説がある。描きたい絵がある。そっちでしょ、本物は。
ゴッホなんか生前、絵が売れていません。弟がおカネを援助してくれるだけ。でも描く。一生を賭けて、描いた。
ライターになりたい、ライター一本で生きていきたい。そういう方たちの前で話す機会も増えてきたんですが、でも「それが目的?」とは思います。ライター「だけ」で食うのが目標ですか?
仮に首尾よくライターで一本立ちできたとして、人間は欲の生きものですから、次から次に、欲望が出てくる。自分の欲望にさいなまれる。
いや、自分の欲望でさえないんです。
Le désir de l’homme est le désir de l’Autre.
人間は、他者の欲望を欲望する。
ラカンの言うとおりです。大文字の他者(l’Autre)、つまり近代社会や資本主義という経済システムが欲望するものを、人は欲してしまう。大文字の他者(l’Autre)とは、言語でもあります。人間を人間たらしめるもっとも基本的なシステム=言語。言語が表象するモノやコトを、人は欲してしまうんです。
成功したい。セレブになりたい。他者に、うらやましがられたい。
だから、ライターとして生きていけるようになっただけでは不足になる。本を出版したい。講演会をしたい。ピュリツァー賞を、ノーベル賞を、とりたい……。
無際限に広がっていきます。これは、苦しい人生です。
そうじゃない。
「これがなければ生きていけない」と思い詰めるほどにのめりこむ好きなものがあって、おカネや食べ物などある程度の対価が得られるならば、もう言うことないじゃないか。
「音楽ができて、それで rent(家賃)が払えたなら、あんたはもう成功者だ」
ビリー・ジョエルが言っていたことです。「ピアノ・マン」を歌ったビリーは、あの曲の歌詞同様、ほんとうによく人間を観察している。好きなことで家賃が払えたなら成功者だ。レコードを出したいとか、ドーム公演をするスーパースターになりたいとか、意味がないよと。
むしろ問題は、死ぬほど好きなことをどう見つけるかだ。
表現者としての職業人になる。
わたしたちがめざすのは、そこじゃないかと思います。少なくともわたしは、「いいライターになる」のが目標です。
思い返すと、わたしは二十代のころからそう口にしてたんですね。いいライターになりたい。「いい」の意味は、まだ自分で分かっていなかった。ライターを続けるうち、だんだん、意味が深化してきた。
良く、生きる。
善く、生きる。
好く、生きる。
『三行で撃つ』というわたしの前著に、そこは詳しく書きました。
幸せの大三角のひとつの頂点は、〈仕事〉です。〈仕事〉が楽しい人が、ハッピーな人です。〈仕事〉をおもしろがれる人が、ナイスな人になります。
働くことに真摯な人。自分に対して誠実で、他者に対して親切。自分の「軸」を持っている。自分の「好き」を知っている。善良な人。好人物。お人好し。
〈仕事〉に一生を賭している人は、いい人です。
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