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はじめに:本は百冊あればいい|試し読み①



ある日、立てなくなったことがある。



長くライターを続けているから、腰痛は職業病のようなものだ。同じ姿勢を続けて腰が痛く、少しのあいだ立てなくなることは、よくある。その日は、違った。そういう痛さではなかった。立とうとする自分の気力に、芯がない。立ちあがって、今日も生きよう。そういう脳の指令を、体が拒否する。


しばらく、四つん這いになって部屋をはい回っていた。



自分の書くものにはなんの意味もない。激しく人に憎まれている。そのころ、そう思いつめていた。人生で初めての経験だった。とうとう夢を見るまでになった。あまりに同じ夢を見るので、手帳に、記録をつけるようになった。日付の近くに「NM」と書く「Nightmare(悪夢)」。半年以上はNMマークが続いた。


ふだんからテレビもネットもあまり見ないが、このときは一切、だめになった。現実世界につながっていると、思い出す。映画も、いけなかった。一生を、それとともに生きてきた音楽さえ、聴くのがいやになった。思い出してしまうから。


昼間、ふと気を抜くと、考えこんでしまう。酒を飲んで無理やり寝ると、NMである。少しおかしくなった、気持ちが食い違ってきた自覚があった。


こんなだったら、寝る意味があるのだろうか。「夢を見ない眠り」についたほうがよくないか。もう起きる必要は、ないんじゃないか。ぼんやりと、そう、思い始めた。



唯一できたのが、本を読むことだった。



集中しているのではない。目を動かしているだけ。没頭して楽しんでいるのではない。文章を、ただ、目で追う。


それでも、本を開いているあいだだけは、NMは入ってこなかった。忘れられた。それくらいの軽い集中を、文章を読むという行為は、控えめに要求する。内容を理解しなくても、文章を楽しんでいなくても、時は流れた。


そして、人間を悩みや苦しみ、悲しみから解放するのは、時間だけだ。



なぜ本だけは読めたのだろう。ときどき考える。いまも分からない。だが、ひとつだけたしかなことはある。本が〈薄味〉だからだ。押しつけないからだ。


自分が入(い) れる範囲までしか、自分の心に入って来ない。ひとたび入れようとするなら、どこまでも入ってくる。意味を拡張する。染み入る。繊細で、微妙で、薄味な悦びが、頭と心を満たす。気持ちを、逸らす。「いま/ここ」から、逃避する。罰せられざる悪徳・読書。



読書の悦びを書くことにした。


読書なんて人それぞれ。勝手に楽しめばいい。


その通りだ。だから本書は「わたしはこうやって読んできた、こうして読書に救われた」という、単なる体験談に過ぎない。


ただ、噓だけは書いていない。音楽。文章を書くこと。本を読むこと。自分にとってだいじなこと、自分を救ってくれた恩人についてだけは、絶対に噓をつかない。固く心に決めている。



目指すのは百冊読書家だ。本は百冊あればいい。小さな本棚ひとつに収まる量。だれでも買える。だれでも持てる。百冊で耕す。カルティベートする。


注意が必要なのは、「本は百冊読めばいい」ではないことだ。自分にとってのカノン(正典)百冊を選ぶために、そう、一万冊ほどは、(読むのではなく)手にとらなくてはいけないかもしれない。


本書は、自力で百冊を選べるようになるための、その方法論のつもりで書いた。


各章は二つの節で構成され、「速読/遅読」など、それぞれが対立する、お互い矛盾するような、読書法の二律背反を書いた。アナログレコードのシングル盤になぞらえて、A面、B面とした。ただしB面とはいえ「裏面」のつもりはない。レコードも、名曲がB面収録ということはよくあること。ローリング・ストーンズ「無情の世界」もGARO「学生街の喫茶店」も、ドーナツ盤ではB面だった。



速読も、積ん読も、音読も黙読も、ノートをとりながらの読書、風呂に入りながらの読書も、自分で百冊選ぶための技術だ。そして、最終的にはその百冊さえ必要ない。わたしは、そうなっていたい。頭の中に、百冊の精髄が入っている。暗唱している。そんな妄想も、最後のほうには書いてしまった。



妄想だが、しかし、噓ではない。

本に書かされているのだから、仕方がない。

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