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第1章 終わりなき論争:《B面》遅読の作法——空気を味わうためのテクニック|試し読み③



「芥川は速読しかできなかった。だから死んだ」


一瞬たじろぐ辛口の評は、『風立ちぬ』の作家・堀辰雄の言である。


速読が死の一因であったかどうかはともかく、百冊読書家も「速読しかできない」のではよろしくない。


一日に三冊もの本を読む人間を、世間では読書家というらしいが、本当のところをいえば、三度、四度と読みかえすことができる本を、一冊でも多くもっているひとこそ、言葉の正しい意味での読書家である。  ——篠田一士『読書の楽しみ』

まじめに書かれた本は、速読を峻拒(しゅんきょ)する。わたしは実用書や、取材で使う資料としての書籍は速読するが、たとえば小説を速読することは、まずない。速読するくらいなら、小説など読まない。小説とは、あらすじを追うものではない。あらすじなんか、どうでもいい。小説とは、作品に流れる空気を味わうものだ。空気は、速読すると風に飛ぶ。


書くことを職業にしている者にしては、わたしは、読むのがかなり遅い。日本語の小説だと一分で一ページ。前述したように十五分単位で一冊の本を読んでいるので、十五ページ。社会科学系の新書ではもう少し速くなり、十五分で二十ページほど。難しい思想書ではぐっと遅くなる。十五分で十ページ程度しか読めない。


英語本になるとさらに遅くなり、日本語の半分か。スペイン語の本ならば十五分で一、二ページしか読めない。


それで満足しているわけではない。しかし、世に言う速読トレーニングを受講して、速く読めるようになりたいとも思わない。目的が違うのだ。



遅読で味わい尽くすための四つの作法


速読だけでなく、遅読にも技術がいる。作法がある。


(1)文章のリズム、メロディー、グルーヴに乗る│世界に染まる

社会科学系の本でも本質は同じなのだが、ここでは小説を例にとる。


小説を読むという行為は、かなりヘンなことだということは、自覚したほうがいい。赤の他人が書いた、ありもしないフィクション、「お話」を読むのである。お話をねだるのは、寝る前、布団に入り、親に絵本を読んでもらう、就学前の子供で卒業すべき営為だ。


いい年をして、われわれがお話を欲するのはなぜか。それは、文章そのものを味わうからだ。文章に内包された、リズムを楽しむからだ。文章が奏でるメロディーを口ずさむためだ。文章が組み合わさって構築される物語、その物語がもつグルーヴの大波に乗るためだ。


グルーヴの大波に乗せられて、つまり世界観を信じ込まされて、水平線を越え、どこかまったく知らない島に漂着する。小舟から降り立つ。周りを眺める。世界が、風景が、一変している。その〈経験〉こそ、小説を読む意味だ。文章を読んで、まったく別の地表に、立った。自分にしか分からない、そのたしかな足裏の感触が、この忙しい時代にわざわざ小説などを読む意味だ。


文章そのもののリズムを味わう。メロディーを口ずさむ。グルーヴに乗せられる。そのつもりで、味読する。しかし、それでも乗れなかったら……。それはあなたの舟ではなかったのだ。読むのをやめよう。新しい舟はいくらもある。


(2)ドッグイヤー、アンダーライン、メモ、付箋│わたしの証

ドッグイヤーとは、ページの上端・下端を三角に折っていくこと。


アンダーライン(傍線)は、シャープペンシルでも色鉛筆でも蛍光ペンでも、なんでもかまわない。本に印をつけていく。わたし自身は、蛍光ペンより書くのが速く、赤鉛筆ほど目立ちすぎない、黄色のダーマトグラフを愛用している。


特に重要だと思ったところは、ページの余白にメモも取る。


本は、たしかに大事なものだ。人類の宝だ。しかし、大事にしすぎると、本を読む意味はほとんどなくなる。使われない名刀は錆びる。



庶民は紙の本など一生に一度も手にしない時代があった。


印刷された本が少なかったから、読書とはすなわち、希少な本を繰り返し熟読、精読することだった。江戸時代の学者、伊藤仁斎は論語を五十年、読み続けた。本居宣長は古事記や源氏物語を、三十五年読んだ。


いまから千年以上前、平安時代の貴族にとっても、紙の本はきわめて貴重なものだった。源氏物語で、光源氏の息子の夕霧は、大学で学んだとき漢籍に爪の跡を残して勉強した。紙は汚せなかった。大臣の息子にしてからがそうなのだ。


それに比べれば、百冊読書家は王侯貴族以上だろう。光源氏より、上だ。本は、安い買い物なのだ。現代に生まれた幸運に感謝して、本を折ろう。線を引こう。メモを残そう。


どうしても抵抗があるならば、付箋を貼って、メモをそえる。読書日記をつける。


読書とは痕跡のことだ。著者とつきあうことだ。自分の感情、思考、その痕跡を残す。


(3)音読する│古典、漢文に近づく

速読法では音読してはならない。遅読でも基本的には黙読するのが望ましい。だが、どうしても意味の取れない本、読めない本は、音読するのがひとつの手かもしれない。


先にも引いた源氏物語を、わたしはあるとき、むしょうに読みたくなった。現代語訳ではなく、原文で、紫式部の文章で読みたい。


しかし、これはきわめて難事だった。紫式部は、敬語の教科書といわれるほどにきらびやかで正確な敬語を使い分けて書いた。それはすなわち、主語を省略しまくっていることも意味する。平安朝の教養ある貴族は、敬語の使い方で主語や目的語が特定できる。だから、わざわざ書く必要はない。かえって煩瑣(はんさ)になるので省く。


つまり、この本は、読者を選んでいるのだ。



昭和文学の大家である正宗白鳥も、源氏物語を「古今東西にあり得ない最高の小説」と称えているが、白鳥は、アーサー・ウェイリーによる英語訳で読んでいた。そして、式部の文章はとても読めないとも言っている。


文学史上の大教養人ですらそうなのだから、わたしが苦労するのはあたりまえ。であれば、堂々と、ゆっくり、音読する。現代語訳を先に読んで参考にするのがいい。脚注も同時に読んでおく。


なにも大学受験をするわけではない。現代語訳を先に読んで、大意をつかみ、ゆったりした気持ちで、楽しんで、朗々と声を響かせる。わたしのお気に入りは、風呂場で朗読することだ。


声が響く。



強調しておかなければならないが、わたしはなにも、高校時代に古文や漢文の成績がよかったわけではない。高校にはほとんど登校さえしなかったので、全般的に成績は悪かったが、とりわけ古文は苦手だった。それがいま、この方式で式亭三馬を読み、西鶴を読み、本居宣長、上田秋成、世阿弥、鴨長明、吉田兼好、平家物語と時代をさかのぼってきて、世界に冠たる宮廷文学の最高峰を音読している。こんなことは、だれでもできる。


こつがある。ひとつだけある。

あきらめないこと。続けること。

つまり、馬鹿になることである。



そもそも、昔の人の読書も、これに似たものだった。論語、孟子、大学、中庸、詩経、書経、易経、春秋、礼記。これらの書物を、 素読(そどく)する。ただ、声に出す。朗読する。声帯を震わせる。


内容など分かっていない。いずれ分かるときがくるのかどうかも、分からない。気が遠くなるような読書体験だ。


これを、すべての読書でまねしようとは思っていない。ただ、源氏物語や論語や聖書、仏典などは、音読するだけで気持ちのよくなるリズムが埋め込まれているものだ。そうでもなければ、千年、二千年と読み継がれていない。


本を読むとは、結局、人類を信じるということだ。人間に信をおくということだ。自分の判断力などあてにしない。しかし、わたしたちの先輩は信用する。いままで人間が読み継いできた本は、安心して、ゆっくり、意味が分からずとも、音読する。


時間ほど、世の中に信用できる批評家はいない。


(4)書き写す│至福の勤行

究極の遅読は、書き写すこと。いわば写経だ。写経というと、我慢を強要する修業のように思うかもしれないが、それは誤解だ。それどころか、至福の読書術といっていい。「抜き書き」と、本書では名付けておく。


これについては第11章に詳しく書いている。



ところで、芥川の速読を戒めた堀辰雄は、プルーストの大長編『失われた時を求めて』を、詳細に、ノートにとりつつ読んでいた。ノートに原文を書き写し、辞書を引き、構文を解明し、丁寧に読み進めた。遅読の最たるものだ。


そして堀は、この本を読み終える前に死んだ。読書は、ついに未完に終わった。



十八世紀のフランス革命では、貴族たちが次々に処刑された。処刑の前、泣き叫び見苦しいのは男のほうで、女性は平然としていた人が多かった。


そのなかでも、シャロストといわれる公爵は、様子が少し違った。処刑場に向かう馬車で、ずっと本を読んでいた。いよいよ階段を上がる段になって、ページの端を折った、という(ブクテル/カリエール『万国奇人博覧館』)。



本を読むとは、未完の人生を生きることだ。

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