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第3章 読まないくせにというけれど:《A面》理想の積ん読——かっこつけると見える景色がある|試し読み④


(【B面】の試し読みは、こちら


積ん読は読書ではない。とくに、本を横にして、床に積み上げていく文字通りの「積んでおく」は、場所ふさぎの害悪でしかない。


プロのライターであるならばいますぐやめるべき悪癖で、本は本棚に立てて、背表紙が見えるかたちで置かなければならない。タイトルを眺めているのが大切なのだ。ジャンルの違う本が、自分の頭の中で結びつく。電気が通る。そういうときに、企画は芽生える。いわば、脳の中で本という血液が循環する。だから、本棚の本はいつでも並びかえができるように、立てていなければならない。



そういう趣旨のことを前著『三行で撃つ』に書いた。このことを訂正する必要を認めていない。プロのライターに、積ん読は厳禁だ。


しかしこの本は、想定読者をもう少し広げていて、ライターばかりではなく、読書によって人生をカラフルにしようという人たちに向けて書いている。そういう人たちには、広義の積ん読はあってもいい。いや、したほうがいいのではないか。


広義の積ん読とはなにかというと、将来読むつもりで、本棚に入れておくこと。お飾り。いわば、ファッションとしての積ん読。そしてファッションは、読書にとってとても大切な要素だ。着飾り、背伸びを、楽しむ。



背伸びして本を買ってみた結果


あの山田珠樹氏は言っている。「ドイツ語を習ひ初めた時にファウストを買つて来て置くのは笑ふべきことではない。その心は褒めてよい。」  ——清水幾太郎『本はどう読むか』

大学二年のころ、英語の授業でサマセット・モームの戯曲 “The Bread-Winner” を読んだ。とてもおもしろく、わたしにしては珍しく、授業の進度より早く読み終えた。輪読で、登場人物のせりふに「Life is so complicated.」とあるのを、「人生なんてそんなものよ」と訳したら、教授に「うまい!」といわれてうれしかったのを、よく覚えている。


この戯曲はモーム晩期四部作の一作で、富も名声も得た作家が、もはや観客へ媚びず、ほんとうに書きたいことを好きなように書いたものだという解説も知った。


四部作のほかの三作も読みたくなり、東京・神田の古書店街へ行き、英文学専門古書店で、分厚い三巻本のモーム戯曲全集を買った。わたしが初めて買った英語の本だった。書店員から「英文学系統の入荷本について、定期的にお知らせを出しましょう」と言われて、大いに困ったことを思い出す。


わたしのことを英文学専攻の大学院生かなにかと勘違いしたのかもしれない。ところがわたしは、英語が得意でもなんでもない。一冊を読み切った英語の本など、なかった。辞書を引き引きなんとか読み切った最初の英語本が、モームの “The Bread-Winner” だった。


見えで買ってはみたものの、英語は苦手なのだから、とてもじゃないが読み進む実力などない。当然のように、その戯曲集は、長いこと本棚の肥やしになった。



しかし、そこがよかった。


貧しかったので、わたしの書棚はほとんどすべてが、岩波文庫や新潮文庫の古本で占められていた。カバーがとれ、背表紙も黒ずんでタイトルが読めない本も多い。そのなかで、二色グリーンのハードカバー、透明シールで包まれたモーム戯曲集全三巻は、輝いて見えた。そびえ立っていた。


それは、「いつか自分もこのような本を読む人間になりたい」という、自分に向けたマニフェストなのだ。自分にはっぱをかけているのだ。未来の自分への約束なのだ。


射抜くべき的(まと)があまりにも遠くに見え、自分たちの弓の力がどこまで届くかを知っている者たちが、目指す場所よりもはるかな高みへ向って的を定めるときのように、振舞うべきである。それは自分たちの矢をさほどの高みへ当てようとするのではなく、そのような高みへ狙いをつけることによって、何とかして彼らの標的へ到達したいと願うためである。  ——マキャベリ『君主論』

目標は、いまの自分より高いところにある。そっちのほうが、生きてて退屈しない。見え、飾り、ファッション。でも、そこが尊い。


ことファッションにおいて、がまんしてはいけない。自分を縛ってはならない。好きな服を着る。たとえ似合っていなくてもあきらめない。服が変わるのではない。自分が変わる。服の似合う人間に、なってくる。ファッションが、人間を変える。



三十年、本を積んでいた結果


同じ意味で、先に理想の本棚を作ってしまう。百冊なら百冊。総数制限を自分で決める。そこに、読みたいと思っている本を並べていく。リスト(第6章に詳述)に沿った本を、先に買いそろえてしまうのだって、ありだろう。十年、二十年後の、未来の自分への投資。積ん読、ここにきわまれり。


本棚が、あまりに立派な積ん読本ばかりになる。すると、こんどは自分がその本棚に引っ張られる。


先に書いたモームの戯曲集だが、いつしか読めるようになっていた。最初の目的だった、晩期四部作については、すべて読み終えた。


べつにたいしたことはしていない。したことといえば、本棚を眺めていただけだ。いつか読みたい、そう思い続けた。英単語を、こつこつ覚えた。あきらめなかったというだけの話だ。



積ん読は、人を変える。


自分は、なぜ世界に生まれたのか。そもそも、世界とはなにか。世界はなぜ存在するのか。世界は、いつ生まれて、いつ死ぬのか。


そんな疑問にとりつかれるのは、若いうちにはよくあることだ。


わたしもそうだった。中学生のころ、移転する前の、大店舗だった渋谷の大盛堂で、岩波文庫版ハイデガー『存在と時間』全三冊を買ったのも、書名だけで判断し、この本に答えがあると勘違いしたからだろう。


最初の十ページほど、読んだのだろうか。分かるわけがない。哲学の訓練をある程度積まなければ、大学生だってとても読めた代物ではない。


あきらめて本棚に放っておいた。しかし、捨てはしなかった。


積ん読したままで三十年。『存在と時間』は、十冊以上の参考書を脇に置きつつ、いちおう読み通されることになる。ドイツ語の原書とも対照し、読了するのに三年かかった。未来の自分への約束は、果たしたかたちだ。


いまだって、「とても読めた代物ではない」ことには変わりない。一生を賭けてハイデガーを研究する学者もいるなかで、自分の、いちおうの読みが正しいものだなどと、言えたものではない。しかし、読み通したことだけは事実だ。目は動かした。その一部には、深く共感できた。一部には反発した。特別好きないくつかの章句は、ドイツ語で暗唱できる。


これで、一般人の読みとしては十分ではないか。



かっこつけとは「理想」を持つ者


積ん読は、ファッションである。かっこつけである。そして、かっこつけこそ、読書の本懐である。


いま電車に乗ると、座席にいるほぼすべての人が、スマホをのぞき込んでいる。SNSなのかニュースなのかゲームなのか。全員が同じ姿勢、同じ動作をしている。とくに文句はないが、少なくともわたしは、その輪に加わりたくはない。電車に乗ると、意地でもスマホはいじらない。


スマホが、いいとか悪いとか言っていない。人生つらいことばかり。電車の中でくらい、好きなことをすればいい。ただ、わたしには、「みなと同じ」ということが、かえってつらい。居心地悪い。かっこ悪い。そういう感性が、昔からある。みなと同じ学生服、みなと同じ体操着が、いやでいやで仕方なかった。ほんの少し、差をつける。違うことをする。とっぽい野郎。


そもそも本を読むとは、「みんなと同じ」が居心地悪い人、いわば不良の行為なのではないかと思うときがある。みなと同じになるな。少し地面から浮いている。世間から遊離する。俗情と結託しない。つまりダンディ。


ダンディとはしゃれ者のことではない。一人でいられること、孤独を楽しめることの、謂いだ。気炎ですがね。


積ん読は、ダンディズムに接近する、ひとつのテクニックということにもなる。


一人で酒を飲んでもつまらないというひとがよくいるけれど、ぼくはそんなことはなくて、一人で、周囲を気にせず、黙って飲むのも好きだ。そして飲みながら、ぼんやりと、なにかを読むのが好きだ。ほんとに周囲を気にしないのだったら、ぼくは詩集を読むかもしれないけれど、酒場と詩集というのはどうもそぐわないような気がする。まわりでオダをあげているひとたちの雰囲気を、詩集を読むという姿勢は、すこしこわしてしまうような気がするのである。それで酒場でぼくが愛読するのは東京スポーツで、悲惨胃袋ガエシとはいかなる技かというようなことも、ぼくは日暮れの酒場で学んでいる。 ——辻征夫「引退した怪人二十面相は招き猫に似てる」

辻とおなじく日本の現代詩人・清水哲男のエッセイに、往年の名レスラー、アブドーラ・ザ・ブッチャー讃歌がある。


私はいま、アブドラ・ザ・ブッチャーという反則屋にたいへん興味を持っている。 (略)彼は相手をまともに見ることをしない。その目は常に宙空をさまよっていて、放心状態のようでもあり、何かを考えているようでもある。攻撃を受けても、ほとんどコタエタ様子が無い。 (略)ブッチャーのファイトを見ているうちに、人はみなこいつは狂人だと思ってしまう。なぜそう見えるのかをいろいろと考えてみたのだが、結局は、どうやらそのうつろな目に主因があるようである。 清水哲男「不思議な国のブッチャー」

辻の先の文章は、おそらく清水のこのエッセイが頭の片隅にあったのではないだろうかと、わたしは妄想している。辻が読んでいる東スポの記事「ブッチャー流血!」は、だから、ほんとうはスポーツ紙でさえなかった。


酒場で詩集を読んでいる。サカバのダンディズム。カサブランカ・ダンディ。


ピカピカの気障(きざ)でいられた。

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