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第3章 読まないくせにというけれど:《B面》狂気の積ん読——愛しすぎると見失う本質がある|試し読み⑤




(【A面】の試し読みは、こちら 読書はファッションである。かっこつけである。本棚は、なりたい自分の姿、未来の自分への約束だ。読める読めないは別として、難しい本を買ってしまう。百冊本棚が、少しずつ充実したものに変わっていく。本棚の「つらがまえ」が変わる。それは、自分が変わることを、直接的に意味する。


わたしは、書物をたいへん大事にしたので、ついには彼らのほうもお返しにわたしを愛するようになった。 書物は熟しきった果実のようにわたしの手のなかではじけ、あるいは、魔法の花のように花びらをひろげて行く。そして、創造力をあたえる思想をもたらし、言葉をあたえ、引用を供給し、物事を実証してくれる。  ——『エイゼンシュテイン全集1』


「本を大事にする」とはどういうことか


書物は大事にするべきだ。大事にし過ぎということはない。必ず書物は、お返しをしてくれる。わたしを愛してくれる。


ただ、大事にするという意味あいは、わたしの場合、本をきれいに保存するということではない。むしろその逆。本をよごす。使いまくる。


谷崎潤一郎の本はたいてい文庫本になっていて、廉価で手に入る。しかし、わざわざ巻末に著者検印がついているものだけを買いそろえる、というような趣味がある。谷崎の検印は、作風にふさわしい見事な“美術品”だ。


羊皮紙でできた洋書を集める愛書家も会ったことがある。本を傷めないよう、空調の整った立派な書庫に、貴重書が陳列してある。


そうした愛書家に、なれるものなら、なってみたい。しかし、わたしたちのほとんどは、そんな趣味を許すほどのカネをもっていないのではないか。



オーストリアの作家ムージルの大長編『特性のない男』に、「すべての本を知っている男」が出てくる。万巻の書物に通じ、巨大な図書室の、どこになにが置いてあるかを知悉(ちしつ)している。読書人にとってあこがれのような人物だが、なぜそういうことが可能だったか。


将軍、どうしてわたしがすべての本を知っているのか、お知りになりたいんですね。そのことなら、申しあげられます——つまり一冊も読んでないからなのです!  ——ムージル『特性のない男』

本のタイトル、著者名、装丁、判型は熟知しているのだろう。しかし、一冊も読んではいない。いちいち中身を読んでいては、書棚に精通することはできない。


こういう存在も魅力的ではあるが、百冊読書家には、こうしたぜいたくは許されない。手元に残す、最後まで積んでおく百冊は、隅々まで読んだ、また、これからも繰り返し読むだろう、自分にとっての「百冊のカノン(正典)」になっている。


わたしのようにライターを職業としていると、仕事の資料のためだけに買い求める本もたくさんある。その場合は、図書館から借り出した本と同じように、丁寧に扱い、必要箇所には付箋を貼る。帯もカバーも捨てない。新品同様にして読み、仕事が終われば処分する。売却する。別の本を買う資金に回す。


資料としてではなく、楽しみに買った本でも、しばらく積ん読しておく場合はある。寝かせている。読む時期を待っている。しかし、ずっとそのままではいけない。場所をふさぐし、本との付き合いにも、「長すぎた春」というのはある。第6章で詳述するが、「必読リスト」に載っている大古典でもない限り、そうした順番待ちの本は定期的に精査して、処分するか、読み始めるかを決める。



それ以外の本は、小説でも詩集でも、自然科学でも社会科学でも、遠慮会釈なく線を引いていく。傍線ばかりになっても構わない。それは、次に読み返すときの補助線、ここだけ読んでいけば大筋をとらえられるという、自分だけの特殊な要約になっている。



わたしが中学、高校のころに買って読んだ文庫本(それも古本がほとんど)には、線も引いていなければページもあまり折っていない。感動していないのではなく、もったいなかったから。きわめて貧乏だったこともあり、せっかく買った本は大切にしなければならないと思い込んでいた。


これは人生で最大級の痛恨事で、中学、高校のころ、自分がどんな文章に心動いていたのか、いま知ることができたらなんて楽しいだろう。どんなにか懐かしいだろう。おかしく、かわいらしく、そして励まされることだろう。


「そんなに思い込まないで大丈夫だよ。これからも、生きていけるよ」



 前節で書いたように、読書はファッションである。しかし、たんすの肥やしにする服ではない。ファッションショーのランウェイで着る服でもない。実用性のある、その場ですぐストリートに飛び出していけるようなファッション。機能性にすぐれた、かっこいい、そして実益のあるファッション。それが百冊読書。



〈沈着〉〈油断〉〈自発〉│読書の三大実益


実益のあるファッションと、つい、書いてしまった。


読書の実益とはなんだろう。


ものしりになる? ぜんぜんだめだ。ものしり人は、読書人からいちばん遠い。だいたい、ものを知っているとは、問いに答えられるということだ。答えのある問い。だれが考えても同じになる問い。それはクイズである。



読書の実益とはなにか。読書で得すること。


その第一は〈沈着〉。


本を読む人は、落ち着いている。本を読むという行為は、原則、ひとりですることだ。孤独な作業だ。ひとり孤独に読み、ひとり孤独に心動かされる。感動を分かち合う人は、基本、いない。孤独に耐えられる人は、動じない人だ。



その第二は〈油断〉。


読書は、人を油断させる。「キモい、ヤバい、エモい」。言葉が少ない人は、世界を切り分ける能力が低い人だ。逆に言葉が豊かな人は、世界がカラフルに見えている。極地の狩猟民が雪を表現する単語は、われわれよりずっと多い。雪の状態を知ることが、命に直結するからだ。


言葉によって世界を切り分ける。語彙の豊富な人には、世界が色彩豊かに、美しく見えている。言葉の豊かな者は、人を安心させる。言葉は、命に直結するからだ。


また、本を読むのは、分かりたいからだ。世界を、人間を、分かりたい。他者の気持ち、感情に、接近したい。そういう意志を顕現させているのが、本のページを繰るという動作だ。そういう意志に対して、人は気をゆるめる。安心する。一緒に話したい、働きたい。あるいは一緒に暮らしたい。



読書の実益の第三にして、もっとも大事なこと。それは〈自発〉。


世界は奴隷で満ちている。労働し、食事をとり、寝る。息抜きに遊ぶ。子供を産み、育てる。難しいことは考えない。考えても仕方がない。考えるのは、上の人。


文明発生以来七千年、人類はいつも、広義の奴隷制を生きてきた。古代帝国の戦争奴隷。土地に縛り付けられた中世の農奴、小作人。歴史で習ったとおりである。


では現代のわたしたちは?


資本主義経済に生きるわたしたちも、広義の奴隷である。というより、資本主義とは、奴隷からより効率的に搾取しようとして発明された社会制度だ。「市場は自由だ」「自分は自由意志で働いている」と思い込んでいる人たちは、若干、おめでたいかもしれない。資本に洗脳されている可能性がある。


そのからくりをここでは詳述しない。拙著『アロハで田植え、はじめました』に、さわりの部分だけは書くことになるだろう。あるいはもっと正統的、学術的には、ウォーラーステイン『近代世界システム』に詳しい。



隠蔽された奴隷制を生きるわたしは、なぜ本を読むのか。


自由に、なるためである。


自由というのは、上から与えられるものではない。〈なる〉ものだ。自らつかみ取るものだ。契約も、意志も教育も恋愛も選挙も、そして仕事も。「自分がつかみ取った」という実感のないものは、それは自由ではない。あらかじめ仕組まれた“自由”だ。


だが、本を読むということ。このささやかな目の運動だけは、小さな、かけがえのない自由になり得る。


本は、わたしが選ばなければわたしの手の中にやってこない。本は、わたしが目を動かさなければ、語り始めてくれない。本は、わたしの知らないことはもちろん、予期しない問い、嫌いな結末さえ運んでくる。テレビやネットといちばん違うところ。


つまり、本は〈自発〉だ。そして、権力者がもっとも恐れるのが、この自発である。


いかなる中立性も、いやそれどころか、自発的に表明された好意すらも、全体的支配の立場からすればはっきりとした敵対とまったく同様に危険なのだ。その理由はほかでもなく、自発性はまさに自発性であるが故に予測不可能なものであって、そのため人間に対する全体的支配の最大の障碍になるからである。  ——ハンナ・アーレント『全体主義の起原』

読書は、〈自発〉への導火線だ。自発的であるがゆえに、予測不可能に発火する。予想していなかった知恵、感情、共感、思考に延焼する。保険はきかない。


最大にして最後的な本の御利益。自発。

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