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あなたへ
この本を手に取ってくださったあなたは、哲学に興味のある高校生でしょうか。それとも、哲学の講義を初めて受ける大学生? もしくは、哲学を学んでみたい社会人の方でしょうか。
哲学に何となく興味はあるけれど、哲学って難しそう
難解で高尚な学問
そもそも何を言っているのか、わからない
このような哲学に対する近寄りがたいイメージを解きほぐしたい。哲学をもっとあなたの身近に感じてもらいたい。本書は、そんな思いから生まれたものです。
私が哲学に出会ったのは二十歳の頃です。以来、二十五年の月日が経ちました。
私自身がなぜ哲学に関心を抱いたのか
私はどのように哲学と接してきたのか
哲学をするとは、どういうことか
本書ではこれらのことを、私の体験談、時には失敗談を交えながら、私がどのように哲学の世界に入門し、その中で考え、今に至るのかをお話ししてみたいと思います。
その意味で、この四半世紀、私が哲学とともにどのように生きてきたかを記した自叙伝のようなものとして、本書を受け取っていただくことも可能です。そして、私というひとつの窓を通して、あなたに哲学の世界をのぞいてもらえたらと考えています。
哲学のはじめ方は人それぞれ
哲学への入門の仕方は、百人いれば百通りの仕方があると私は考えています。興味や関心のある問題も人それぞれですし、これだけが唯一の哲学への入門の仕方だというものは、ないと思います。
それは、誰一人とっても、同じ人生、同じ生き方がないようなものです。決して人生や生き方を画一的には論じることはできず、いろいろな人生や生き方があるとしか言えないのと似ています。
また、哲学とひとくちに言っても、その領域は広大です。思いつくままに、哲学の領域を挙げてみましょう。
認識論
存在論
科学哲学
宗教哲学
言語哲学
法哲学
心の哲学
芸術の哲学
倫理学
論理学
もっとありますが、この辺りでやめておきますね(ちなみに、第二章でお話ししますが、私の関心領域は宗教哲学と言語哲学です)。
さて、好きな哲学者の著作を読みたいという人もいるでしょう。
プラトン
アリストテレス
デカルト
スピノザ
カント
ヘーゲル
ニーチェ
ハイデガー
フランス現代思想なども人気がありますね。
デリダ
ドゥルーズ
フーコー
メルロ=ポンティ
以上、これらはほんの一例です(ちなみに、同じく第二章で紹介しますが、私の好きな哲学者はウィトゲンシュタイン[1889〜1951]とシモーヌ・ヴェイユ[1909〜1943]です)。
本書では、個別の哲学者を詳しく解説することや、「哲学とは何か」を網羅的に説明し尽くすことは到底できません(私にはその能力もありません……)。
百人いれば百通りの哲学への入門の仕方がある中の、ほんのひとつです。ほんのひとつですが、今まさに哲学に興味を抱くあなたにとって、本書がこれから哲学に入門する際のささやかな道標になれば幸いです。
そして、あなたには難解で高尚と感じられる哲学のハードルを自信を持って飛び越えてもらえれば、筆者として嬉しい限りです。
日常生活の半径数メートルからはじめてみる
本書では、日常生活の半径数メートルから哲学をはじめてみました。たとえば、
•なぜ働かなければいけないのだろう?
•苦しいこの病気の意味とは何だろう?
•宗教を信じるとは何だろう?
•善く生き、善く死んでいくとは何だろう?
日常生活で、ふっと湧くこのような疑問が、私たちにいちばん身近で素朴な哲学の問いです(この四つの問いは、第四章から第七章にかけてそれぞれ詳しく論じます)。
ここで言う「素朴な問い」が日常生活の半径数メートルのうちで問われる哲学の問いだとすれば、「素朴な問い」に対する「高度な問い」とは、二千五百年もの西洋哲学史において、長く受け継がれてきた知識や議論を踏まえ、初めて問うことのできるような哲学の問いです。
たとえば、
•カントが『純粋理性批判』の中の超越論的感性論(ちょうえつろんてきかんせいろん)で述べる、時間の概念の形而上学的(けいしじょうがくてき)な解明って何だろう?
眠くなりますね。
大丈夫です。安心してください。本書では、この問いには立ち入りません。「高度な問い」とはどういった問いなのか、あなたに体験していただければ、それで十分です。
階段でたとえるなら、私たちが「哲学は難しい」と思ってしまうのは、階段のいちばん下の「素朴な問い」ではなく、今見たカントの「超越論的ほにゃらら」のような、多くの知識を必要とする階段の上の方の「高度な問い」を最初に問うてしまうからではないでしょうか。
「哲学って、難解で高尚な学問」と感じられるのは、そのためではないかと私は思うのです。そして、そこであなたが哲学を諦めてしまうことは、何とも残念なことだとも思います。
哲学とは、「自分で考える術」を身につけること
ところで、哲学するには、「自分で考える」というその仕方、その術を身につける必要があります。哲学書を読むことだけに気を取られ、案外、見落とされがちなのはこの点なのですね。
多くの知識を身につけることが受動であるなら、その知識をもとに「自分で考える」ことは能動です。語学学習と似ていますね。英語の文法や単語をインプットすることが受動なら、身につけた知識を駆使して実際に話したり、書いたりしてアウトプットすることが能動です。
哲学の問いが長い歴史においてどんな風に考えられてきたのかを知ること、そしてそこから「自分で考える術」を身につけ、今度は実際に自分自身で考えてみることが哲学するうえでは大切なことなのです。
フランスの高校生は最終学年になると、哲学の授業を必修として受けることになります。また、高校の終わりに受験するバカロレアと呼ばれる大学入学資格試験においても、哲学は試験科目なのです(フランスの哲学教育について、詳しくは坂本尚志『バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』[日本実業出版社]をご参照ください)。
なぜフランスでは哲学の授業があるのかというと、その理由のひとつが、この「自分で考える術」を身につけさせるためです。たとえば、自分にとって幸福とは何か、不幸とは何かをいちど、徹底的に高校生に考えさせる訓練をするのです。
この点、日本では、幸福とは何か、不幸とは何かと考える代わりに、幸福や不幸を漠然と感じて終わってしまうのではないでしょうか。つまり、日本人には徹底的にそれらを考えるという機会がとても少ないのです。
フランスの高校生のように、自分にとって幸福や不幸とは何かを考え、自分の言葉で説明する訓練を受けることで、とっさの感情論に流されることなく、物事を分析して論理的に考える力を養うことができるのです。
この「自分で考える術」について、日本では、哲学科のある大学の講義や演習(ゼミ)などで先生から直接教わることができます。でも、必ずしも大学へ行かなくとも構わないと私は思っています。
何より日本では、一流の哲学研究者による入門書や解説書が多く出版されており、そこから学ぶことができます。それらの本で、どんな問いが、どんな風に考えられるのかを知ることができるのです。
料理だって卵を割ることからはじまる:簡単な一歩から
問いや知識が食材であるとするならば、哲学はその食材をもとに考え、料理することにあたります。その意味で、哲学の仕方、つまり「自分で考える術」を身につけることは、料理の仕方を習うことに似ています。
それなら、初めて料理をする人が、いきなり一流料理人の作った料理を真似できないのは当然ではないでしょうか。
人が哲学は難解で高尚だと拒否反応を示してしまうのは、この一流料理を最初に味わってしまうからかもしれません。「こんな料理、一体どうやって作ったらいいのだろう」と途方に暮れてしまいますよね。
哲学の仕方、「自分で考える術」を身につけるにも、順序が必要です。料理だって、最初はご飯の炊き方、お味噌汁の作り方を習い、次に、カレー、肉じゃが、玉子焼き、オムライスの作り方と階段を上っていきますよね。そうしていくうちに、一段一段と一流料理人に近づいていくことができると思うのです。
どんな哲学者たちも、最初は「素朴な問い」を抱いたに違いありません。そして、その「素朴な問い」を大人になってもずっと大事にしてきたに違いありません。彼、彼女らはその「素朴な問い」が不思議でたまらなく、気づいたら哲学の世界に入門していることになったのではないでしょうか。
自身の「素朴な問い」を問い、考えるために、彼、彼女らは、同じような問いを問うた過去の先人たちと、その遺された書物を通して対話を試みました。
彼、彼女らは先人たちの書物を一生懸命に読み込み、研究した結果、そのまま受け入れることに満足できず、独自の考えを展開していくことになったのです。それが、オリジナルな哲学説の誕生の瞬間です。
哲学の問いを「自分で考える術」も、料理の仕方も、一足飛びに身につくことではありません。そこで、いちばん大切なのは、まずは「素朴な問い」を抱くことです。まずは何か料理をしてみたいと思うこと、それです。
また、あなたがある哲学者の書いたものを理解したいという思いも、「素朴な問い」を抱くことと同じだと私は考えています。
ハイデガーは『存在と時間』で何を言おうとしているのだろう?
デリダは『グラマトロジーについて』で何を言おうとしているのだろう?
フーコーは『知の考古学』で何を言おうとしているのだろう?
ハイデガー、デリダ、フーコーという他者をあなたは理解しようとしているのです。他者を理解したいという思い、それも十分過ぎるほどの哲学をはじめる動機です。
「考えること」は誰でもしてよい
この「はじめに」において、最後にお伝えしたいのは、
「考えること」は誰でもしてよい
ということです。
確かに、大学の哲学研究はとても重要です。その研究の成果は、入門書や解説書として私たちもその恩恵を受けています。しかし、学問としての哲学研究のみが哲学である、と哲学を狭く限定してしまうのは、哲学への入口を狭き門にしてしまうと思うのです。
そもそも「考えること」は誰でもできることです。この「考えること」を私たちは自ら放棄して、誰かにお任せにしてはいけないのですね。
学問としての哲学研究だけではなく、「哲学」自体、つまり「考えること」自体は万人に開かれています。
生きるとは、死ぬとは、私とは、正しいとは、善とは、美とは、そして、人間とは。そのように「考えること」は誰でもしてよいし、することが可能なのです。
大学で哲学を学んだ人や研究者だけしか、哲学をしたり、哲学について語ったりしてはいけないということはもちろんありません。
なぜなら、たとえばプロ野球選手でなくとも、野球をしたり、野球について語ったりしているのですから。本来は、哲学も野球と同じで、誰もがプレーすることのできるものなのです。私たちが野球談義をするように、日常的に哲学談義をすることは可能だとも私は考えています。
哲学って「考えること」自体です。
その意味で、哲学って本当は、私たちが肌で触れられるような、もっと日常的、庶民的なものなのですから。
本書の構成について
第一章 哲学することで強くなる
第一章ではまず、「哲学って何?」という問いからはじめます。この問いに答えるために、私たちは哲学に何を期待しているのか、哲学は私たちにどんな〈メリット〉をもたらしてくれるのか、を順に考察していきます。そして、本章のタイトル「哲学することで強くなる」とはどういう理由なのかを明らかにします。
第二章 哲学をはじめる:私の哲学遍歴
第二章では、自己紹介をかねて、二十五年間の私と哲学のかかわりについてお話しします。私がなぜ哲学に入門し、その中で考え、今に至るのかを時系列で述べています。
振り返れば、私が考えることを続けてこられたのは、哲学が与えてくれた「驚き、感動、知る喜び」があったからです。そして、躁うつ(双極性障害)を発症して苦しかったときも、私のそばにはいつも哲学がありました。
第三章 哲学を体験してみよう:「私」とは何か?
第三章では、実際に、哲学者のテクスト(哲学書)を一緒に読んでみたいと思います。少し難度は上がりますが、難しいことは気にせず、とにかく哲学議論に体当たりし、思考のうねりや深まりを感じてみてください。また、本章は「哲学体験の場」に過ぎません。この章が理解できなくとも、第四章以降に進んでいただいて差しつかえありません。
第四章 働くということ
第五章 病むということ
第六章 宗教を信じるということ
第四章から第六章にかけては、あなたが日常生活の半径数メートルから哲学をはじめるために、その練習問題として、働くこと、病気になること、宗教を信じることをテーマに一緒に考えてみます。これらのテーマは、私がこの人生でずっと考えてきたものです。ぜひ考える楽しさを知っていただくと同時に、人生における困難を「自分で考える術」で乗り越える参考にしてください。
第七章 善く生き、善く死んでいくということ
第七章は、本書の締めくくりとなります。私たちの誰もが生まれ、生き、そしてやがては死んでいきます。そのような人生において、善く生き、善く死んでいくとはどういうことかを考えます。生きることは誰にでもあてはまります。ですから、このテーマは私たちにもっとも身近な哲学の問いです。また、本章を通して、「生きること」と「考えること」はつながり合っているのだということを知っていただければと思います。
なお本書では、これからあなたが哲学に入門するための道標として、23の【視点】を用意しました。階段を上るように、一つひとつの【視点】を順番に身につけてもらえるように構成しています。
それと、一点だけ、私からあなたへお願いがあります。本書をゆっくりと考えながらわからない部分は行きつ戻りつしながらお読みください。本書を読むコツは、「決して急がないこと」です。
各章は独立していますから、どの章からお読みいただいても結構です。また、私の推
奨する読み方は、第一章、第二章を踏まえたうえで、他の章へ進むというものです。これがいちばんスムーズに本書の内容をご理解いただける道すじです。
では、一緒に哲学の世界をのぞいてみましょう!
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