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視点21:内なる善、つまり良心を発見する|『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた』試し読み③


関野哲也『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた』(CCCメディアハウス)

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法律と良心の違い


善とは何でしょうか?


私たちは、してもよいこと、してはいけないことの基準があることをなんとなく知っています。わかりやすいところで言えば、その基準とは法律です。この場合、私たちは善悪の判断をしているというよりも、意識的または無意識的に、「法律に反するから」という理由で、その行為をしないでしょう。


法律とは、特定の国や地域で決められた人間同士の約束事です。「お互いにこれこれはしないでおきましょう。もし約束を破った場合は、これこれの罰を受けることにしましょう」という約束のうえで、人間関係を円滑に進めようとするものです。


法律で行為が禁じられていれば、私たちは、してもよいこと、してはいけないことを一つひとつ考え、判断する必要が無くなります。私たちの行為は、ある種、法律という規則によって自動的になされているとも言えます。


この点で、池田晶子は次のように述べています。


もし善悪を一般的に規定できるなら、人がものを考える必要はなくなる。法律と慣習と一般的思い込みに盲従していればいいからだ。しかし、そんなところに人間の善悪は存在していない。善悪は各人の「胸の内」、各人の内なるところにしか存在していないのである。——『知ることより考えること』

では、法律で定められていない行為の判断基準とは何でしょうか。


たとえば、現在のところ日本では、仲間はずれを禁じる法律はありません。しかし、仲間はずれはかっこわるいこと、よくないことだと多くの人は考え、その行為をしないのではないでしょうか。


この場合、仲間はずれをしない判断基準は、道徳と呼ばれます。道徳は、それに背いたからと言って罰せられることはありません。道徳は、各自の良心というものに委ねられているだけなのです。


道徳に背いたときには、良心の呵責があるだけなのですね。そうです。先ほど、池田晶子が「善悪は各人の「胸の内」、各人の内なるところにしか存在していない」と言うのは、この良心のことです。



お天道さまが見ている:道徳の根拠づけの難しさ


道徳の根拠づけをするためには、「人として、または人の行いとして、世の中には良いことと悪いことがある」という言い方、または「お天道さまが見ている」という言い方で、各自の良心に訴えかけるしかないのです。


多くの哲学者たちがこの道徳の根拠づけを試みていますが、道徳的に良いこと、悪いことを根拠をもって示すことは、実のところ難しいのです。なぜ難しいのかというと、人の行いの良い悪いは、誰がどのように決めているのか、と問うてみるとよいと思います。


神やお天道さまのような存在が決めているとも考えられますが、では、その神の存在を証明できるでしょうか。このように、道徳の根拠づけをしようとすると、神の存在を証明しようとするところまで、問いは深まります。


したがって、道徳の根拠は何かという問いは、どんどん深まっていくという意味で、語り尽くせない問いなのです(第一章を参照)。


さらに、善が各自の良心に委ねられているとすれば、人それぞれ善のあり方は異なるとも考えられます。実際、そのように考えるのが相対主義です。人、時、場所によって、善悪の価値は変わってしまう、つまり相対的であるとする考え方を相対主義と言います。


さらに進んで、絶対的な善など、そもそも存在しないと考えるのがニヒリズム(虚無主義)です。


神やお天道さまのように人間の行為を見通し、良い行いには報いを、悪い行いには罰を与えるような存在がいなければ、善も保証されないということです。すなわち、何も無いという意味で、ニヒリズムです。


ニヒリズムにおいては、われわれの行為を見張り、罰してくる者はどうせいないのだから、何をしてもよい、何をしても許されると考えます。しかし、このような考え方の人が集まる社会は、想像しただけで恐ろしいものがありますね。


相対主義やニヒリズムに陥らないために、道徳の根拠を考えることは必要です。たとえそれが語り尽くせない問いであっても、考え、語り続けることが大切なのです。



「他律的」と「自律的」


では、私たちは考え、語り続けていきましょう。


池田晶子は各自の内なる善、つまり良心を道徳の根拠と見なします。そして、道徳の行いのふたつの側面を指摘しています。


ひとつ目の側面は、「悪いことはしてはいけないからしない」、つまり、「人に言われるからしない」、「人が見ているからしない」などの、自分の考えとは別の理由で「悪い」と思われているからしないという、他が律する、すなわち他他律的な側面です。


ふたつ目は、「悪いことはしたくないからしない」、つまり、自分がある行為を「悪い」と考え、その行為をしないように自分を律するという自律的な側面です。(『私とは何か』)

この「悪いことはしたくないからしない」という行為の自律的な側面は、後ほど効果を発揮します。池田晶子は次のようにも述べています。


善悪は外にではなく内にある。内にしかない。この恐るべき当たり前に、どうしてか人は気づかない。気づきたくないのかもしれない。善悪は外、法や世間や世間の評価にあると思っていた方が、内で悪いことができる。内で見てるぞ、自分が悪事を見張っているぞ。そういうのは怖くて叶わないと、そう思っているのかもしれない。/しかし自分にとって悪いことを自分がしないように見張っていられるのは自分しかいない。「悪い」というのは、自分にとって悪いという以外のいかなる意味でもない。法律を犯すことが悪いことなのでは断じてない。法や世間の善悪など、そこでは一切関係ないのだ。——『知ることより考えること』(太字、引用者)

善が自分の内にあり、それが終始、自分の行いを見張っているとしたら、そのことに私たちは耐えられるでしょうか。


自分で自分を律しなくてはならない。いえ、律しなければならないという言い方は、まだ他律的ですね。自分で自分を律したいという自律的な言い方がなされるべきでしょう。


しかし、自分が自分を律するという言い方も、実はまだ他律的なのです。というのは、自分の内に自分とは独立に良心なるものがあって、それが自分を見張っていると考えるからです。


そこで、「自分にとって悪い」という池田晶子の言葉をもう少し補足する必要があります。これはどういう意味かというと、たとえば、自分がつい仲間はずれをしてしまい、嫌な気持ちになったことを想像してみてください。


この嫌な気持ちで夜も寝つきが悪かった。良心の呵責に苛まれた。こんなとき、もう仲間はずれはやめようと思わないでしょうか。こんな良心の呵責に苛まれるくらいなら、自分の良心にしたがって、すがすがしく生きたい。こんな思いこそが、「自分にとって悪いこと」であり、自分から「悪いことはしたくないからしない」と思うことなのです。



内なる善の声を聴く


さて、先ほどの池田晶子の考えを突き詰めると、やはり各自の内なる善、つまり良心の相対主義という考えを免れません。というのは、私の良心とあなたの良心は、どのようにして、ひとつの行為について道徳の良し悪しを同じように決定できるのかという問題が残っているからです。


しかし、池田晶子もこのような批判は承知していたと私は見ています。そのうえで、彼女はあえて各自の内なる善、良心というものに信頼を置いたのだと思います。


良心を信頼することは、

神を信頼することと同じである


と私は考えています。


このことは、次のように考えるとよいと思います。すなわち、神の存在を証明できないなら、善悪の相対主義を採用しなければならないということではなく、神の存在を証明できなくても、神を信頼し、相対主義を乗り越えることはできる、というものです。


同様に、良心を根拠づけることができないなら、相対主義を採用しなければならないということではなく、良心を根拠づけられなくても、良心を信頼し、相対主義を乗り越えることはできる、と。


私たちは、たとえ良心を根拠づけることはできなくても、良心を信頼して行為をすることはできます。そして、私が私の良心を信頼するように、私はあなたの良心を信頼する。このような良心への信頼の連鎖が世界中に広まることが必要なのかもしれません。


実際、そのようにお互いに信頼し合っているからこそ、現時点でも、少なくとも日本では、(防犯カメラは街のいたる所にありますが)人混みの街を武器や防具なしに歩けると思うのです。


各自の内なる善、つまり良心への信頼という意味において、池田晶子の洞察は真実でしょう。自分の行いを見ている自分の良心の存在は真実だからこそ、それを知ってしまった者にとっては厳しいものです。人は、その真実を「不都合な真実」として、見て見ないふりをするかもしれません。


しかし、自分の行いを自分の良心が見ているとネガティブにとらえることは違うのでしょう。なぜなら、それはまだ、良心にやらされているだけの他律であり、自律的とは言えないからです。


ここで、先ほどの「悪いことはしたくないからしない」という自分で自分を律する自律的な側面が効果を発揮してきます。つまり、良心と自分がひとつになったところにようやく、私は良心にしたがって生きたいという自律的な生き方が可能になるのです。


私は先ほどの池田晶子の言葉(ふたつの引用箇所)を読んで、内なる善、良心の存在に気づきました。それまでの私は、善は相対的なもの、すなわち、人それぞれ、時代や状況によって善の内容は変わると思っていたのです。


その気づきを、私にとっての回心(かいしん)と呼ぶこともできるかもしれません。



回心:池田晶子と死刑囚


実際に、彼女の言葉に回心した、つまり心を改めた死刑囚もいます。回心とは、心の向きが一挙に、劇的に変わることです。


『死と生きる 獄中哲学対話』(新潮社)という著作名が示すように、池田晶子は、死刑囚の陸田真志(むつだしんじ)公開往復書簡を行っていました。池田晶子は陸田真志について次のように書いています。


ある死刑囚は、逮捕され、獄中で、忽こつ然ぜんと回心した。何ということをしてしまったのか。殺人は完全な悪である。私は罪を犯したのだから、罰は当然である。残された時間を償いのために使いたい。(中略)/おそらく彼は、突然の回心を得た時、殺人の悪に気づいたのではなく、自身の善に気づいたのだ。——池田晶子『新・考えるヒント』

陸田真志自身は次のように書いています。


獣としか思えなかった私にも善を求める心がある事、あった事がわかり、やっと自分自身を卑下する考えから解放されました。そして、死も神も自由も孤独も権力も概念に過ぎない、そう知って、初めて何者も恐れず、何物にもとらわれない、真に自由な自分自身の魂をとり戻せた思いです(今、独房においても全くの自由を得ていると信じられます)。そして、その「善」が在る事。それを求める心が、自分にもあった。その事実にこそ、「神」が存在する、そう信じています。——池田晶子・睦田真志『死と生きる 獄中哲学対話』

「殺人は完全な悪である」という死刑囚の気づきは、内なる善、良心の声を聴いた者のそれです。陸田真志は、殺人の悪の根拠に気づいたのではありません。言いかえれば、殺人がなぜ悪いことなのかという絶対的な理由を知って、彼は回心を得たのではないのです。そうではなく、彼は自身の良心に気づき、その声をじかに聴いたのです。


彼が良心の存在に気づき、殺人という罪を悔い改めたことは、彼の良心への信頼でしょう。また、その良心への信頼が再び彼の中で芽生えたその事実にこそ、神が存在するという、神への信頼が起きたのです。


それまでの彼は、自分の欲望のためなら何をしても許されると思って生きてきたのかもしれません。そんな自分自身を「卑下する気持ち」とは、きっと自暴自棄に近いものがあったのではないかと私は推測します。


しかし、そんな彼の中にも善を求めるという清い心があった、その事実が彼を再び目

覚めさせたのです。


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