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視点1:「悩み」と「哲学の問い」は違うと知る|『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた』試し読み②


関野哲也『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた』(CCCメディアハウス)

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哲学ってどんなイメージ?


私が最初に哲学というものの存在を知ったのは、小学校低学年くらいだったと記憶しています。私の名前の「哲也」がどういう意味なのか、そして、なぜ両親が私に「哲也」と名づけたのかを母にたずねた時のことです。


母の説明によると、「哲也という名前は、哲学の「哲」の字から取ったんだよ」というものでした。


「じゃあ、哲学って何?」


と、私は続けて母に問いました。母の説明によると、


「哲学って、えらい学問だよ」


というものでした。母は母で精一杯の説明だったのだと思います。それでも、私は私で単純でしたので、「へぇー、哲学って、えらい学問なんだ、すごーい」と納得してしまいました。


二十歳になる頃まで私はのんびりとした子供でしたから、「哲学とはえらい学問なんだ」と、それ以上深掘りすることなく生きることになります。


しかしそれにしても、哲学って一体何なのでしょうか? 私の母の説明のように、「よくわからないけど、立派な学問」というイメージを持っている人が案外多いのではないでしょうか。


そこで本章では、早速、「哲学って何?」ということをお話ししていきます。



哲学に期待するもの


まず、あなたは哲学に何を期待していますか?


  • 哲学を学べば、日常生活で抱く様々な「悩み」を自分で考え、解決できるようになるのではないか。


そんな期待が挙げられますね。


ところで、この「悩み」とは、具体的にどういった内容なのでしょうか。「悩み」と言っても人によって千差万別、様々です。ここでは、人間関係、仕事、恋愛、健康の「悩み」を挙げましょう。


  • 学校や職場の人間関係がうまくいかず、悩んでいる。

  • 自分がしたいわけでもない仕事をしなければならず、もっと自分に合った仕事をしたいので、転職すべきか悩んでいる。

  • 私は結婚できるのかどうかと悩んでいる。

  • 病気になったらどうしようかと悩んでいる。


ところが、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲルなどの哲学者たちの主要著作を読んでみても、彼らはこれらの「悩み」を問題にしておらず、したがって答えてくれてはいないのです。


むしろ、これらの「悩み」に対して、考え方や心の向きを変えるようアドバイスをしてくれるのは、自己啓発書ではないでしょうか。



哲学と自己啓発の違いとは


似ているのでよく混同されがちなのですが、自己啓発書と哲学書の違いを見てみましょう(図1参照)。はっきりと線引きをすることはできませんが、哲学書とはこんな感じのものということを知ってもらうために、大まかに以下に説明してみます。




自己啓発書は答えを提示してくれます。


ところが、

哲学書は答えではなく

問いを立てます。


言いかえるなら、哲学書は納得のいくまで問い続けるのです。


たとえば、人生に行きづまった人がいるとします。その人は悩みの中にいるのですね。


自己啓発書は、悩みの中にいるその人の考え方や心の向きを変えるようアドバイスすることによって、マイナス思考をプラス思考に変換し、行きづまりから救い出してくれる力を持っています。つまり、「こう考えてみてはどうですか」という答えの提示です。


私の好きな自己啓発書に、アール・ナイチンゲール『チャンスは無限にある』(きこ書房)があります。その中の一節に、次のように書かれています。


いつも心に将来の自分の理想像を抱いていなさい。努力すれば、日に日にその理想像に近づいていけることは確かだ。こういう努力を続けているなら、退屈などしている暇はないはずであり、自分の実力をまるで発揮できない単純作業をさせられているときも、劣等感に悩むこともなくなる。(『前傾書』)

もっと自分に合った仕事をしたいと悩む人に対して、アール・ナイチンゲールは、心に自分の理想像を抱き、その理想像に向かって、日々努力を重ねることの大切さを説きます。その努力をしている限り、悩んでいる暇など無く、自分を磨くことに集中するのみ。そして、自分磨きに集中していれば悩みなど感じないものなのだ、と。


このように、自己啓発書は、私たちが日常生活で抱く様々な「悩み」を問題にし、解決すべく、答えを提示してくれます。他方で、哲学書は、問いを立て一時的な答えを導きますが、自己啓発書と異なるのは、答えの提示で終わるのではなく、その答えからさらに新たな問いを立てるのです。


この「答えから新たな問いを立てる」ということの説明に入る前に、もう少し言い添えておきます。


哲学書と自己啓発書が非常に似ている場合もあります。たとえば、人間というものを見つめたセネカ『生の短さについて』(岩波文庫)やマルクス・アウレーリウス『自省録』(岩波文庫)、モンテーニュ『エセー』(中公クラシックス)、パスカル『パンセ』(中公文庫)など。


また、人間が際に(現に)、在し生きるという意味の実の視点から出発して、様々な問題を考えようとする実存主義と呼ばれる哲学者たち、たとえば、サルトル、ヤスパース、レヴィナスなどにとって、「人間が生きるとは何か」ということが大きなテーマであることは間違いありません。


右に挙げた人間というものを見つめた哲学書は、人間が生きるうえでぶつかる問題に直接向き合ったものです。しかし、哲学書と呼ばれるもの全体から比べて、(私の知る限り)あまり多くはありません。それ以外の大部分の哲学書には、その人の人生における「悩み」を直接解決してくれるような答えは書かれていないのです。



神秘:「わからないこと」で満ちている世界


では、哲学書には何が書かれているのでしょうか。哲学書には、私や世界が存在することの神秘が書かれています。その神秘により、哲学書は私たちの人生観、世界観を一変させるのです。ここで私の言う神秘とは、「わからないこと」という意味です。


ここで、「ちょっと待って」という声が聞こえてきそうですね。そもそも哲学とは、知を愛するという意味であり、知の営みを通して、知るということに重きが置かれているのではないのか? 知ることに重きが置かれているのに、神秘という「わからないこと」が人生観や世界観を一変させるとはどういうことか?


この質問にお答えしつつ、先ほどの「答えから新たな問いを立てる」ということを説明してみます。


たとえば、カント(1724〜1804)の『純粋理性批判』(岩波文庫)などは、人間はここまで考えることができるのだという知の営みの奥深さを実感させてくれます。


カントは、人間が何かを知るとはどのようにして可能かと問いを立て、とことん考え抜きました。それでも、カントの考えたことに対して、現在でも多くの新たな問いが研究者によって立てられています。つまり、カントの「考えたこと=最終的な答え」で終わりというわけではなく、そのカントの答えから新たな問いが生まれているのです。


哲学では、このようにカントの答えから新たな問いを立てることを「カントを批判する」と言います。批判するという言葉は、人の悪口を言ったり、人を非難するという意味ではありません。カントの考えたことを吟味し、検討するという建設的な意味です。


したがって、私たちがカントを読むなかで、次の違いが生まれます。


「わからないこと」を知らない

 ↓

「わからないこと」を知っている


このふたつには大きな違いがあるのです。


たとえば、学校の授業を例に取りましょう。先生が「わかりましたか?」と聞いてくれたとき、「うーん、わからない所がわからない」という自分の位置がもやっとしてわからない状態と、「先生、ここがわかりません」と言える自分の位置がはっきりとわかっている状態とでは、大きな違いがあるでしょう。


哲学も同じなのです。


自分は何がわかっていて、

何がわかっていないのかを知ること。

それを知ることに重きを置くのが哲学である


と言えます。そして、


このわかっていないことをさらに考え、

考えたことを言葉で表現しようとする試みが哲学


なのです。


このように、哲学は、人間や世界について、私たちにはまだ「わかっていないこと」が多くあると教えてくれます。そして、その「わかっていないこと」を知るために、私たちは新たな問いを立てるのです。


人間や世界は、「わからないこと」、つまり神秘で満ちており、その神秘はきらきらときらめいている。哲学を通して、「世界は美しい」と私たちが思えるのは、その神秘のきらめきゆえだと私は思うのです。


私自身、かれこれ二十五年、哲学に接し続けてこられたのは、哲学書を読んで感動し、「人間存在は奥深い」、そして「世界は美しい」と思えたからです。それは、私たちにとって、人生観や世界観を揺さぶられる体験でした。



日常にある「悩み」、日常に隠れた「哲学の問い」


本書の執筆をはじめた当初、日常生活で抱く「悩み」から哲学をスタートできないか、と私は考えていました。つまり、哲学を学ぶことによって、日常生活の「悩み」を自分で考え、解決できるようになるような本。


ところが、二ヶ月間、私は必死に考えたのですが、うまく書けなかったのです。うまく書けなかったのは、日常生活の「悩み」と哲学をうまく結びつけられない私の力不足もありました。


ですが、それ以上に、哲学の性格がこの「悩み」というものと相性が悪いのではないか、と私は気づいたのです。ここには、哲学の性格の見過ごせない特徴があるように思えます。


その特徴とは、「哲学の問い」は、日常生活の陰陰かげに隠れており、普段は意識されないということです。「悩み」は日常生活において表に出てくるのですが、「哲学の問い」は日常生活では隠れているのです。


具体的に、哲学者が立てた問いを挙げてみましょう。たとえば、プラトン(紀元前427〜紀元前347)は「善とは何か」と問いました。


普段、私たちは、行為の良い悪いをどのように判断しているでしょうか。簡単な答えは、法律で決められている通りに判断する、というものですね。


では、法律で決められていないことは、どのように判断しているでしょうか。それは道徳と言われますね。では、道徳における良い悪いはどのように判断しているでしょうか。


このように、良い悪いの根本を問うていくと、やがて「善とは何か」という究極と言

ってもよい問いに突き当たります。


さて、日常生活で私たちが何らかの行為をする際、私たちは、一回一回、究極の問いである「善とは何か」と自問自答しているでしょうか。いちいち自問自答していたら、何もできなくなりそうですね。



哲学の三つの性格


ですから、哲学の性格を次のようにまとめることができそうです。


  • 当たり前を疑う

  • 物事の本質/根本を問う

  • 可能性の条件を問う


まず、ひとつ目の「当たり前を疑う」です。これは先ほどのプラトンの例でも述べたように、普段、日常生活では当たり前のように、私たちは良い悪いを判断して行動しているのですが、その当たり前をいちど疑います。


次に、ふたつ目の「物事の本質/根本を問う」です。日常生活において当たり前に行っている良い悪いの判断に対して、ちょっと待てよと疑ったうえで、そもそも「善とは何だろう?」という善の「本質を問う」のが哲学です。「本質」とは、いつ、どこでも変わらない善の性質という意味です。


最後に、三つ目の「可能性の条件を問う」です。これは別の例を挙げましょう。先ほども触れましたが、カントは、人間が客観的に何かを知るときの「認識の可能性の条件」を問いました。客観的というのは、皆が目の前のコップを一様に同一のコップとして、つまり誰にとっても同じものとして認識できるということです。


「認識の可能性の条件」とは、認識を成立させているものという意味で、それをカントは時間と空間であると考えたのです。皆が同一の時間と空間という条件を有しているからこそ、その条件のなかで見られるコップは、同一のコップとして認識されるのだ、と。


この「認識の可能性の条件」も、普段、日常生活で私たちは意識しているでしょうか。私たちが何かを知るということは当たり前のことであり、何かを知ることができるための条件を日常生活で改めて問うことはないでしょう。


たとえば、デートで喫茶店に入り、この目の前のコップを私が認識できるのはなぜか? 私の見ているコップと彼女の見ているコップは、はたして同一のコップであるのか? などと問うていたら、一向にデートになりませんね。


したがって、以上のように、哲学の問いは、日常生活の陰に隠れており、普段は私たちに意識されないのです。



哲学することで、結果として「悩み」が消えている


このように、哲学は直接的に私たちの「悩み」に答えてくれません。しかし、私たちが哲学の問いを考えることで、結果的に、私たちの「悩み」が消えてしまうことがあります。


たとえば、人生において大変つらいことがあり、「もう駄目だ……」とまで思っている人がいるとします。自己啓発は、こんなとき、その人のマイナス思考をプラス思考に転換することで、直接的にその人を助けてくれるでしょう。


では、哲学は、どんな仕方で私たちを助けてくれるのでしょうか。これは私の体験ですが、私も人生を送る中で何度も心を倒しそうになったことがあります。2010年(三十三歳)に私は躁うつを発症し、頭を締めつけられるような感覚と体のだるさにより、つらく苦しく、「いっそのこと、もう死にたい……」と思ったこともありました。


でも、そんなとき、哲学が私を救ってくれたのです。


  • この哲学書をもう少しだけ読んでみよう

  • この哲学の問いをもう少し考えてみよう


そう思って哲学書を読みはじめると、人間や世界というものは謎だらけなのだということに気づかされるのです。いちど不思議だと感じると、もっと知りたくなるのですね。


そこで、


  • この人間というものをもう少し知ってみるか

  • この世界の美しさをもう少し味わってみるか


と感じる中で、私の中で知らないうちに、「もう少し生きてみるか」という気持ちになり、「もう死にたい……」という思いも消えているということがありました。


哲学が私を支えてくれたのです。ですから、本章のタイトル「哲学することで強くなる」のひとつ目の理由はこれなのです(これから、本書全体をとおして、「哲学することで強くなる」のその他の理由についても触れていきます)。



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